金丸原飛行場跡地(再訪編)
- 2014/10/16
- 00:02
大田原市史 後編(大田原市史編さん委員会、昭和五十七年十二月一日発行)
P717
金丸原陸軍飛行場開校
金丸原陸軍飛行場開校
偶然にも一月後の五月十日には、金丸原陸軍演習場の東北隅に熊谷陸軍飛行学校の金丸原分教場が設置開校されたのである。「侍ニッポン」の作曲者松平信博の「新民謡・大田原小唄」(作詞星野尚夫)で「花の益荒男笹リンドウは、与一誉の紋所、空の港の金丸原で、若いパイロットがトントパイロットが胸に棲むトントサ」と唄われた。まだのどかな時期でもあったのである。
各郷土史からまとめた年表
昭和9年 : 旧所沢陸軍飛行学校の不時着陸場となる。
昭和10年 : 所沢陸軍飛行学校金丸原分教場となる。
昭和12年5月10日 : 熊谷陸軍飛行学校金丸原分教場となる。
昭和12年6月5日 : 熊谷陸軍飛行学校金丸原分教場開校式が挙行される。
昭和14年 : 金丸飛行場の拡張により、黒羽道路付け替えられる。
(第一飛行場=長さ1,900m、第二飛行場=長さ1,300m)
(第一飛行場=長さ1,900m、第二飛行場=長さ1,300m)
昭和16年4月 : 宇都宮陸軍飛行学校金丸原教育隊となる。
昭和19年1月 : この頃、宇都宮陸軍飛行学校金丸原教育隊は常陸陸軍飛行部隊に編成替えされ、
昭和19年1月 : この頃、宇都宮陸軍飛行学校金丸原教育隊は常陸陸軍飛行部隊に編成替えされ、
金丸原分遣隊と改称される。
昭和19年11月(12月) : 熊谷陸軍飛行学校の金丸原分教場が閉校。職員は各地に分散、
学生は各分教場に配属、軍属は防空戦闘隊に転属。
昭和20年 : 滑走路整備・改修、那珂川沿いの秘匿滑走路建設(注:佐良土秘匿滑走路の事)
昭和20年7月10、18日 : 米グラマン機、金丸飛行場など空襲。
昭和20年8月13日 : 艦載機グラマン、コルセアなど金丸原飛行場空襲。二波の攻撃により、
昭和20年 : 滑走路整備・改修、那珂川沿いの秘匿滑走路建設(注:佐良土秘匿滑走路の事)
昭和20年7月10、18日 : 米グラマン機、金丸飛行場など空襲。
昭和20年8月13日 : 艦載機グラマン、コルセアなど金丸原飛行場空襲。二波の攻撃により、
単発機4機焼失、その他の被害を受ける。
昭和20年8月15日:終戦
アーカイブ写真(USA-M159-A-5-32 1946年06月08日撮影)を見ると・・・・
2本の白い滑走路(コンクリ舗装?)が、ハッキリと見えますねぇ~♪♪
(出典:国土地理院ウェブサイト USA-M159-A-5-32 1946年06月08日)
グーグルアースの画像に線を引っ張るとこんな感じです♪
前回、掩体壕とか門柱とか石碑とかを探訪したのですが・・・・・
滑走路跡を撮影していなかったので、再探訪しました~♪ (;^ω^)
つ撮影位置
①地点から南南東方向 (第2滑走路跡)
①地点から北北西方向 (第2滑走路跡)
②地点から南南東方向
②地点から北北西方向 (第2滑走路跡)
③地点から南東方向 (第1滑走路跡)
④地点から北西方向 (第1滑走路跡)
⑤地点から南東方向 (第1滑走路跡)
そして、⑥地点には石碑がひっそりと佇んでいました・・・・・
開田記念碑の碑文
本事業は十五名の共同施行により縣單補助事業として昭和三十九年四月一日に着工し縣市當局の指導の下に事業費約五百十万圓を以て同年六月三十日に第一第二工區六九ヘクタールの開田工事を完了した仍て碑を建てゝ茲に之を記念する
昭和三十九年十一月二十日 北金丸地區土地改良事業協同施行 古 内 豊 書
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